VERNIERバーニア
Prequel Ⅰ STRANGER

Part Ⅰ


機体は闇を抜け、未知なる光の底へ吸い込まれるように落ちて行った。

その光は名も知れぬこの星の中心へ一斉に降り注いでいる。密集した光の帯が幾重にも重なって、バリアのようにこの星を外敵から守っていた。その聖なる光が外から来た異物であるこの船を取り巻く。まるでゆりかごのようにやさしく包み込むように……。

そして、その光が水面に反射してプリズムのように輝いていた。遥かに続く空と海の狭間に沈む夕日のように……。

機体の中には静寂があった。闇の中で、あれ程激しく鳴り響いていたエマージェンシーも今はじっと沈黙を守っている。

銀色の機体の外装は痛々しいまでに損傷し、今にも分裂しそうに傷付いていた。亀裂の入った尾翼と折れた翼……。それでも宇宙船は光の中で胸を張り、最後まで威厳を保っていた。右のエンジンノズルは既になく、爆発的に、唯一残っている左ノズルからオレンジの炎が噴出している。

ガクン。機体が垂直に傾いた。
その反動で意識を失っていた操縦士が目を覚ます。
目の前のメインスクリーンに映し出された景色は青……。澄んだ空。そして、一面の水に反射する光の波動……。

「海だ……」
それは、彼がこれまで経験したことのないような神聖な感動を齎した。
「綺麗……」
彼はじっとスクリーンに見入った。青いスクリーンに反射して流れる赤い液体が自分自身の身体から溢れているものだという自覚もなかった。彼はただ美しい美術品でも観賞するようにそれに魅入った。

そして、ふと隣にいた彼女に話し掛けようとして止めた。彼女の身体からも同じ赤いものが流れ出ている。二人の身体から流れ出たそれは床に溜まって溶け合った。痛みはなかった。恐れも何も……彼は感じていなかった。ただ、彼女がそこにいるのだと思った。しかし、彼女は無言だった。

彼女の眠りを妨げないようにそっとその手を握る。彼女の手は冷たかった。透き通るように白い頬。長い睫。その睫に水滴が一つ、光に溶けて輝いた。彼は、彼女の頬にそっとキスすると身を寄せ、ただ正面を見つめた。その青い海を……。それから、機体は大きく傾くと水平線へと落下し、自らも銀色の光を放って消えた。


海が近かった。扉を開ければ潮の香りが鼻をくすぐり、耳を澄ませば波の音が聞こえた。しかし、そこは森の木々に覆われ、海からこちらを見ることは出来なかった。気候は熱帯に近く、植物は早く育つ。その太くて立派な葉を蓄えた蔓草が外壁を取り巻き、その家は完全に緑の葉に埋もれていた。
「おじいちゃん、取ってきたよ」
少女が籠に摘んだ赤い果実をテーブルに置いて言った。
「おお。ありがとうよ、アニー」
奥から出て来た老人が言った。
「わたし、ポンムの実って好きよ」
少女は自分の拳程の赤い実を軽く指で突いて笑う。
「ねえ、王子様は目覚めた?」
空と同じ色の瞳をきらきらさせて少女は訊いた。
「いや、まだ眠っているよ」
老人が応える。
「うふふ。お寝坊さんね。もう3週間も経っているっていうのに……。まるで眠り姫みたい」
「酷い怪我だったからの。それに、かなりの部分を人工の物に取り替えなければならん大手術だったし、上手く神経と繋がってくれたかどうか……」
老人が懸念する。
「あら、おじいちゃん、いつも自分は天才なんだって言ってたじゃない。せっかくその天才振りを発揮できるチャンスが来たのよ。絶対、彼を助けなきゃだめよ」
少女が強く主張した。

そもそも、彼が海岸に打ち上げられているのを発見したのはアニーだった。
「おじいちゃん! 大変よ! 砂浜に人が倒れてる」
駆けつけてみると確かにそれは人間だった。若い男で出血が酷く、意識もなかった。いや、それどころか心臓も肺もほとんど機能を停止していた。
「こいつは無理だな……」
老人は顔を顰めた。半身が座滅に近い常態だった。どう見ても助かりそうにない。
「そんな……! お願い。何とかしてよ、おじいちゃん。可哀想だわ」
アニーが訴える。老人は彼の様子を観察した。
「左腕は使いものにならんな……だが、足はもともとサイボーグなのか……」
老人が彼を動かすと微かながら息を吐いた。
「驚いた。こいつはまだ生きることを諦めてはいないようだな」
「ほんと?」
彼女がぱっと顔を輝かす。
「アニー、おまえは先に家に帰ってお湯をたっぷり沸かしておいてくれないか」
「わかった」
そう言うと少女は風のように駆けて行った。
「いい顔をしているのに……」
老人は懐からナイフと布を取り出すと手早く応急処置を施した。
「何という奇跡だ。偶然、傷付いた血管が圧縮されて出血が止まったのか……」
そのまま出血が続いていたら間違いなく命を落としていただろう。しかし、墜落した時の衝撃がかれに生きる望みを与えた。

老人は彼を運ぶとオペレーションルームで処置を始めた。助手はアニーが努めた。彼女はまだ11才の少女だったが医師である老人の指示を忠実に果たした。手術は13時間にも及んだ。少しでも生きた神経を残すため、慎重な作業が続いた。途中で足りなくなった電子部品や薬品をアニーが何度も倉庫へ探しに行った。手術の途中、危機が訪れて緊急の救命処置を行ったのも1度や2度ではなかった。
そんな努力の末にようやく救った命だった。

しかし、老人にはまだ懸念していることがあった。意識が無事に戻って来るか。繋いだ神経は正しく機能するのか。そして、何よりも彼自身の心が生きようとする意志を持てるかどうかに懸かっていた。

彼は見たところまだ二十代前半と思われる若者だった。そんな彼が今の状況を受け入れるにはあまりにも残酷だ。
何処から来たのか知らないが、恐らくは宇宙船でここまで来たのだろう。だとしたら、他にも仲間がいるかもしれない。その宇宙船は何処にあるのか。仲間達はどうなったのか。彼が左手にはめていたリングには独特の模様が掘り込まれていた。が、残念ながらそれは半分以上歪んでしまい、元がどんな印だったのかまでは判別が出来なかった。


「彼は一体何処から来たのかしら?」
アニーが言った。
「あの日、海の向こうに流れ星が落ちたの。きっとあれに乗って来たんだわ。そう思わない? おじいちゃん」
「流れ星?」
老人が聞き返す。
「うん。銀色に光って見えたわ。それとオレンジ色の光も見えたの」
「やはり、船か。何か宇宙でトラブルが起きたようだな」
「宇宙って?」
アニーが訊いた。少女はこれまで一度も宇宙を見たことがなかった。
「星がたくさん集まっているところじゃよ」
「じゃあ、やっぱり彼は星に乗って来たの?」
「いいや。船だよ。星の船に乗って来たんだ。そう。星から星を渡る大きな船にね」
「大きな……船?」
彼女が知っているのは海へ魚を釣りに行く時に乗る小さな船だけだった。
「おじいちゃんはそんな宇宙船に乗ったことがあるの?」
「ああ……昔な。わしは大きな宇宙船の船医だったんだ……」
老人がふっと遠くを見つめて言った。
「それじゃあ、またその船に乗りたい?」
老人は首を横に振った。
「今はここがわしの船じゃよ。この星のすべてが……」
と、その時、アラームが鳴った。彼に異変が起きたのだ。
「おじいちゃん」
「うむ」
老人の表情に緊張が走る。手術のあと2週間を過ぎた頃から彼の様態はずっと安定していた。が、だからといって、決して油断が出来る状態という訳でもなかった。が、それでもすべてが希望に繋がっていた。

二人は病室に駆けつけた。そして、扉を開けると彼が目を覚ましていた。
「よかった。気がついたのね」
アニーがベッドに近づいて言った。彼はぼんやりと天井を見つめていた。白い部屋。白いベッドに寝かされて身体のあちこちがチューブで繋がれている。そんな自分の姿を見ても彼は何も反応しなかった。
「ねえ、わたしの声が聞こえる? こっちを見て」
アニーの言葉に視線が動く。彼はその声の主を探そうと眼球を動かす。ゆっくりと時間を掛けて、彼女の明るい金髪を捉える。そして、消え入りそうな声で訊いた。
「ここ…は……?」
「病院よ。砂浜で倒れているのをわたしが見つけたのよ。あなたは運がよかったわ。天才外科医のおじいちゃんに手術してもらったからこそ助かったのよ」
アニーはこれまでのことを話そうと身を乗り出した。が、少女の話は彼の耳には届いていないようだった。

「これこれ、急にそんなに話し掛けちゃいかんよ」
老人がたしなめるとアニーはぺろっと舌を出して首を竦め、後ろに下がった。そして、入れ替わりに老人が前に出て彼に話し掛ける。
「どうだね、気分は? 何処か痛むところはないかね?」
老人の問いに彼は黙っていた。
「君の名前は?」
「……わからない」
彼はじっと何かを見い出そうとしていた。が、やがて諦めたように言った。
「何も……わからない」
「いいよ。落ち着いてゆっくり思い出せばいいんだからね」
そう言うと老人は彼の右手に触れて訊いた。
「今、君の右手を触っているよ。わかるかい?」
「はい」

それから老人は彼の左手に触れて言った。
「では、これは?」
「いいえ。何も感じません」
老人は頷いて言った。
「左手を動かせるかね?」
「左……?」
彼は少し表情を歪めると言った。
「何もわかりません。ああ、本当に何も感じない。わからない。僕は一体……?」
混乱していた。僅かに心拍が乱れ、苦しそうな顔をする。
「大丈夫だよ。落ち着いて……。君は事故に合ったんだ。でも、何も心配することはない。君は助かったのだからね。心配しなくていいんだよ」
「事故……」
彼は再び視線を泳がせた。それから、ふと真顔になって言った。
「彼女は?」
高い天井に埋め込まれた白い照明に照らされて、彼の繊細な顔立ちが鮮明になった。磨かれた黒曜石のような瞳が印象的な若者だった。

「彼女とは?」
老人は温和な水色の瞳で問う。彼はじっと老人の顔を見つめた。そして、懸命に考えを巡らす。が、質問の意味を手繰り、咀嚼するためには時間を要した。
「……わからない」
彼はか細い少年のような声で答えた。肩まで伸びた漆黒の髪が白いリネンにばらけ、浮き立って見えた。彼の記憶は混沌とし、まだ雲の上を彷徨っているのだ。
「教えてください。僕は一体誰なんです? 何も思い出せないし、身体が動かせないんです。どうして……? 何故こんなことに……。僕は一体何処の誰なんですか? 教えて欲しい。お願いです。教え…て……!」
僅かに動く首と右手を必死に動かして彼は言った。が、左手と下半身は鉄のように固く、動きそうにない。
「…息が……」
彼は喘いだ。呼吸が乱れ、心拍が不規則になった。
「大丈夫だ。落ち着いて。すぐに楽になるからね」
老人は彼に鎮静剤を与えるとデータを調べた。

接合部に拒絶反応が現れていた。彼自身の細胞を取り出して培養し、神経と回路を繋いだのだが、それが上手くシンクロしていなかった。
「アイヒトルトがあれば……」
老人が呟く。それは生体細胞とメカニカル細胞を繋ぐ際に生じるリスクを減らすために開発された免疫抑制剤だった。老人がまだ船に乗っていた頃、医療現場に革命を齎すだろうと噂されていた夢の新薬だった。それからもう20年の年が過ぎた。夢のような薬はもうとっくに実用化され、いや、それどころかもっと素晴らしい薬や治療法が数多く発見されているに違いない。そんな最新の医学を取り入れることが出来ないのが、今の老人にとって歯がゆいところだった。
「ない物ねだりをしたところでどうにもならんか。今ある物で代用しなければ……」
眠っている彼の顔はまだ若く、可能性に満ちた年頃である。そんな彼に希望を持たせることが今の自分に課せられた最大の使命なのだと老人は思った。

「おじいちゃん?」
アニーが心配そうな顔で覗く。
「大丈夫だよ、アニー。心配しなくても彼は助かる。澄んだいい目をしていたろう? 意志の強い瞳だった。あれは、神の使命を預かりし、選ばれた者の目だ」
「選ばれた者の目?」
「そうだ。乗っていた船が遭難し、座標にも載っていないこの辺境の星で、わしらは人知れず朽ちていくものだと思っていたが……。どうやら、神はこの老い耄れにまだ重大な使命を課されてくださったようだ。いや、そのために、今まで生かされてきたのかもしれぬな」
そう言うと老人はうれしそうに笑った。
「おじいちゃん……?」
アニーが不思議そうに覗く。老人はそんな彼女の頭を撫でて言った。
「彼はわしらにとっては未知なる星のストレンジャーだ。が、この者こそ銀河を変える覇王となる人物かもしれぬ。ここにいる間は大事にしてやろうじゃないか」
老人は楽しそうだった。
「銀河って何? 覇王って……?」
少女が訊いた。
「銀河は星の集まりじゃ。覇王とは偉大なる王様のことだよ」
「王様? それじゃあ、やっぱり彼は星の王子様なのね」
アニーがうれしそうに言った。
「そうかもしれぬな」
老人も頷く。


それからまた2週間が過ぎた。季節は雨季へと移行していた。来る日も来る日も雨が続く。それでも、アニーは外で摘んだ花を持って来て、彼の病室に飾った。彼はあの日以来、一言も口を利かなくなってしまった。時々、ぼんやりと目を開けて天井を見ていることもあったが、ほとんどベッドの中でまどろみの時間を過ごしていた。
治療の効果は上がらず、彼の容態は悪化していった。時折、酷く苦しそうな表情をするのは痛みに耐えていたのかもしれない。
「まずいな……」
老人は焦った。彼の身体は消耗していた。熱が続き、心臓に負担が掛かっているのだ。肺に酸素を送り込んでやらなければ自力での呼吸も困難になった。しかし、その酸素の量は限られている。濃縮酸素のボトルは残り1本になっていた。しかも繰り返される培養細胞との連結は回数を増す程に拒絶が激しくなっていった。だが、これを成功させなければ、彼の命を救うことは出来ない。拒絶反応を抑えられなければ、いずれ劇症アレルギーを起こして死ぬ。

「手立ては……」
残り少なくなってしまった薬品庫の棚を見て老人はため息をついた。
「アレスロイドを使うか……」
しかし、それは大きな賭けだった。アレスロイドは禁断の薬だった。効果も高いが副作用も強い。適合したならば彼は普通の生活に戻れるようになるだろう。しかし、もし適合しなければ命はない。二つに一つなのだ。その薬は細胞の分裂、成長を促進するための特殊療法財だった。が、それが普通の薬でないというのは、昔、地球で天才製造薬として開発されたこの薬によって、人類滅亡の危機にまで発展したという闇の経緯があるからだ。しかも、その薬はそれからも何度となく改良され、今に至り、闇のルートを通じて流れている。人の欲望とは底知れない愚かさを秘めているものである。

午後、病室を訪れると彼は目覚めていた。相変わらず、心ここに在らずといった風であった。が、老人が話し掛けると微かに耳を傾けた。
「熱があるね。それに呼吸も苦しくなってきたのだろう? だが、君に送ってやれる酸素はもうないんだ。薬のストックも尽きてきた」
老人の悲しそうな顔を見て彼は言った。
「僕は……死ぬんですか?」
老人が頷く。が、彼は反応しなかった。アニーが花瓶に飾った鮮やかな色の花を黙って見つめる。
「だが、一つ新しい薬を使ってみようと思う。アレスロイドといって、もし君の体質に合えば劇的に回復し普通の生活が出来るようになる。だが、もし合わなければ致命的な結果に……つまり死ぬことになる。効果は五分五分。結果は12時間後に出る」
「闇の薬を使うんですか?」
彼はじっと老人を見つめて訊いた。
「君は知っているのかね?」
老人に問われて彼は少し考えているようだった。が、やがて顔を背けて言った。
「……わかりません」
何かを思い出し掛けたのかもしれない。アレスロイドは一般の人間が知る薬ではなかったからだ。知っているのは医療関係者かごく限られた知識人と研究者、それに政府の人間。歴史として学生が習う教科書に記載されている物とは名称を異にしているからだ。その名を知っているということは、彼がそれらの部署に所属していたということになる。が、それ以上の情報は何も齎されなかった。

「選ぶのは君だ」
老人が言った。そんな老人の顔を彼は見つめた。耳の奥で繰り返し波の音が聞こえていた。それが単なる幻聴なのか、何か別の意味があるのか、今の彼には判断がつかなかった。が、それが美しい海の情景だったように彼は思った。青く何処までも続く水平線。その先にある憧れにも似た強い想い……。
(見てみたい)
そう彼は思った。
(あの光のずっと遠くにあるものを……)
それが何かはわからなかった。しかし、強く魅きつけるものが水平線の向こうに広がっている。今は波のように襲ってくる痛みのせいでその輪郭は霞んで見えないけれど……。

「お願いします」
と、彼は言った。
「本当にいいのかい?」
老人が念を押す。
「はい」
彼は静かに頷いてみせた。それから、彼が右手を差し出したので、老人は強く握ってやった。その手は熱く汗ばんでいた。

「新しいお花を摘んできたわ」
アニーが花を抱えて入ってきた。明るい色のその花は少女の笑顔に映えていた。
「……レイン」
唐突に彼が言った。
「え? 何? 名前、思い出したの?」
少女が訊いた。
「外……雨が降ってるの?」
「そうよ。今は雨季だから……。だけど不思議。ここでは音なんか聞こえないのにどうしてわかったの?」
「花びらから水滴が落ちてる。それに君の髪の毛からも……」
「鋭いのね。ああ、でも、よかったわ。あなた喋る元気が出て……。ねえ、名前思い出した?」
彼は首をゆっくり横に振った。
「そう」
少女はがっかりしたようにさっき飾ったばかりの花を見た。赤い大きな花びらから水滴がぽたりと落ちた。

「そうだ。レイン。あなたの名前、レインって呼んでいい?」
「レイン?」
「そうよ。名前がないと不便だもの」
「そうだね。レイン……素敵な響きだ」
彼は言った。
(レイン……悲しみが凍りついたクリスタルの雨が降る……空の涙……覆い切れない悲しみの結晶は川に溶けて海へ還る。そして、また天に召され、僕の上に降り注ぐ……。悲しみの深い雨、雨、雨……レイン クリスタル。それが僕の名前……)


雨はまだ降り続いていた。彼はベッドで眠っている。老人が薬を投与してから12時間が過ぎた。彼は今、静かに闘っていた。自分と自分の時間を取り戻すために、命を賭けて闘っているのだ。闘いは長引いた。高熱と呼吸困難が続く。額の汗を拭ってやりながら老人は祈った。
「還っておいで……君の未来へ……」
突然のアラーム。呼吸が途切れた。1分の沈黙……。しかし、彼は戻ってきた。自分自身との闘いに彼は勝利して戻ってきたのだ。

「……レイン」
少女が呼んだ。
「僕の名前……」
彼が言った。
「雨、やんだよ」
アニーの言葉に彼は微笑んだ。
「僕は、クリスタル レイン……。君の名前は?」
彼が訊いた。
「わたしはアニーよ。おじいちゃんはアントニー ノーマン。二人だけで住んでるの」
アニーが言うとノーマン老人も笑顔になった。

「ずっと二人だけ?」
レインが訊いた。
「ううん。昔は大勢いたんですって。でも、今は二人だけになっちゃったの」
アニーが言った。
「宇宙船が遭難してね、およそ20年前になる。だが、大勢いた仲間は皆死んでしまった。だから今は、わしとアニーの二人だけなんじゃよ」
老人が補足の説明をした。
「二人……? ううん。これからは3人だよ。僕がいるもの」
彼が言った。
「僕をここにおいてくれますか?」
「もちろんよ。ねえ、おじいちゃん」
ノーマンもうれしそうに頷いた。
「よかった。熱は下がったようだ」
彼の額に触れて老人が言った。
「ええ……」
彼は頷いたが少し怪訝な表情をした。

「どうしたの?」
アニーが訊いた。
「何処か痛むのかね?」
老人も言った。
「いいえ」
レインは少し難しい顔をした。それを見た二人が不安そうに覗く。が、次の瞬間。彼が言った。
「左手……」
その言葉にアニーと老人の視線がそこに向かう。すると、彼の左手が微かに震えていた。
「指が! レインの指が動いてる」
「薬効が現れたようだ」
その驚異的な効果を目の当たりにしてノーマンは驚いた。
「これなら、きっとすぐに歩けるようになるわね」
アニーが言った。
「そうだな」
老人も頷く。

「歩けるようになったら何処に行ってみたい?」
アニーが訊いた。
「海が見たい……」
彼はすっと目を細めて言った。
「海?」
「うん。見たいんだ。何処までも続く青い海を……」
その瞳に映し出された水平線……。その空と海を隔てるものを、レインは懸命に探そうとしていた。今はまだ見つからない記憶の糸と永遠に終わらない愛の軌跡を……。